保守と右の違い
- 2020.06.1 | コーヒーブレイク
はじめに
SNSで、保守と右の区別がついていなかったり、そもそも統治権力が保守や右という前提で議論が進んでいたりするのにとっても違和感を感じているので、整理しました。社会学者の宮台真司さんの話を引用しています。
保守とは?
エドマンドバーク「人間というのは、理性的であろうとしても限界がある」
社会というのは、産業革命以降複雑化し、その結果、人間の理性的なキャパシティ、能力を超えるようになっている。
「何かを変えたらどうなる」というだけの浅はかな考えでは、社会は悪くなってしまう。
変えるとしても少しずつ変えて様子を見て変える(インクメンタリズム=だんだん変える)。これが保守主義の態度。
マンハイム「反省された伝統主義」
保守主義は伝統主義ではない。
反省された伝統主義というのは、前述のバークの思想を踏まえたうえで、昔からなされていることが現にいくつかあるとすれば、それは意味があるから多分残っている、害がないから残っている。人間が新しく持ち込んだものは意味があるのか害があるのか分からない。従って、ある制度があったとして、それがどういう意味でいいのか悪いのか分からない以上、現に長く存在し続けているものについては、とりわけ慎重に扱おう。とりわけそれを変えることには慎重であろう。これが反省された伝統主義。
すごく近代的、つまり理性的な考えである。マルクス主義、共産主義よりも高度な思考。
何も考えずに、自分たちの仲間の利権のために法を変えるような輩は、クズではあっても保守ではない。
右との共通点
ある制度がある、なんでそれがあるのか結局人間にはよく分からない。人間に適用しても同じである。なぜ人間が生きようとするか、前に進むのか。自分たちのことはまだよく分からない。保とうとしている良きものの中には、合理的に説明できないけど、みんながそこにあることを何となくいいと思っているものがある。保守はこれも尊重する。これは保守の発想であると同時に右の発想でもある。平時は保守である人間が、非常時は右になり得る(三島由紀夫)。
右とは?
右と保守は重なるけど、異なるとこがある。右とは何か?右と左という図式で考えてみる。
制度を変えて社会が制度的によくなっても人は幸せにならないと右は考える。どうしてか?人がどういう条件があれば幸せになるかという事を、僕たちはまだよく知らないから。
完全に理想的な場所(ユートピア)が出来た結果、人々は色んな動機付けを失った。やる気を失った。このようなSF映画はこれまでいくつも描かれている。
「理不尽不条理故に我行かん」という人間も一定数いる。これを最大限尊重しようという発想が右。
元々はギリシャ時代に由来する。要は人間が何かをいいと思う、悪いと思うというのは、端的なことであって、一定の条件があるためそう思うわけではないという思想。神は全能だ。善も悪も何でも意思できる。ではなぜ悪があるのか。全能の神が端的に悪を意思したからだ(主意主義=ボランタリズム)。
意思は端的、これを人間にも適用する。人間も端的。突然死に至る、病にかかる。死に至る冒険をしようとする。
補足
左とは?
制度による社会変革がなされれば(うまくいけば)、幸せになると考える。
世の中には悪がある。不条理がたくさんある。なぜなのか。神は全能なのにおかしいじゃないか。
左は「いや、これも神の計画であって人間からは悪、不条理に見えても、神の目から見ると長い時間が経つと、それがよかったと思える」と考える。つまり神は人間から一見悪と見えることを、善なる目的のための手段として、置いているのだ。これが左の発想(主知主義=インテレクチャリズム)。
高木誠